概要
セルラ式携帯電話は、商業ビルやスポーツ施設の中でも使われることがあります。セルラ・システムに対するユーザのニーズを満たすためには、そうした建造物の内部や人が密集する屋外の環境も含めて高いカバレッジを実現しなければなりません。しかし、建造物の内部という環境においては信号を適切に受信するのが難しくなります。では、そうした環境において、セルラ式携帯電話システムのカバレッジと伝送容量を高めるにはどうすればよいのでしょうか。そのためには、分散型アンテナ・システム(DAS:Distributed Antenna System)の利用が不可欠です。本稿では、このDAS向けの包括的なソリューションを紹介します。特に、RFトランシーバーに、双方向アンプ(BDA:Bidirectional Amplifier)またはリモート・アクセス・ユニット(RAU:Remote Access Unit)を組み合わせたICベースのシステムのメリットについて詳しく説明します。解説にあたっては、いくつかの詳細な機能ブロック図を提示することにします。それを基にソリューションについて詳しく学ぶことで、各要素がどのように連携して動作するのかより深く理解することが可能になります。
はじめに
上述したとおり、商業ビルやスポーツ施設などの環境においてシームレスな接続を提供するためには、セルラ式携帯電話システムのカバレッジを高く維持する必要があります。しかし、今日の大型商業ビル、病院、スポーツ施設などは、厚い鋼鉄、コンクリート、エネルギー効率の高いガラスの壁などによって実現されています。それらが原因で、セルラ・システムからの信号を利用者のスマートフォンに届けるのは容易ではなくなります。四方を塞がれた構造や濃い色の着色ガラスといった建設材料によって、建造物がRFシールドのように作用してしまうからです1。また、高くそそり立つ構造物は、近隣の電波塔から高いレベルのRF干渉を受ける可能性があります。その結果、サービス・レベルは更に低下してしまいます。加えて、あまりにも多くの人が狭い空間に密集している場合には、通信容量が不足してしまう可能性があります。このことも、スマートフォンの受信感度が低下する要因の1つです。こうしたことが組み合わさった結果、現代的な建造物の中でスマートフォンによって信号を正しく受信するのは容易ではなくなりました。セルラ・システムのサービス品質を高く維持し、ワイヤレス・ネットワークの今後の成長を促すためには、ICをベースとするDASのソリューションが不可欠です。
DASとは何なのか?
DASは、建造物内においてワイヤレス・ネットワークの能力を強化するためのシステムです。DASを利用することにより、セルラ・システムの高いカバレッジを実現し、利用者に対して高い信頼性を提供することが可能になります。DASは、空間的に分散配備されたアンテナのノードで構成されるネットワークです。その主要な機能は、セルラの信号の強度を向上し、通信範囲を拡大することです。特に、人が密集する屋内/屋外においても、高いレベルの接続性を達成することができます。DASの実装形態は実に様々です。ただ、一般的には、ドナー・アンテナ、RF信号用のBDA(またはブースタ)、ワイヤレス通信事業者が設置するBTS(Base Transceiver Station)、光ファイバによる分配方式を採用したヘッドエンド、RAU、建物内に戦略的に配置された多数の天井アンテナの間を直接接続することになります(図1)。なお、BTSは複数台(通信事業者ごとに1台)存在していることもあります。
多くの場合、この種のシステムでは、複数のRFフィードが結合されて、マスタの分配ユニットであるヘッドエンドに送られます。それに向けて、まずは建物の屋根に配備されたドナー・アンテナにより、事業者のシステムを対象とした信号の送受信が行われます。次に、最適に配備されたBDAによってワイヤレスの信号が建物内に引き込まれます。その信号を受け取ったヘッドエンドは、様々な光ファイバ・ケーブルを介してRAUに信号を供給します。RAUは、同軸ケーブルを介して天井アンテナ・システムに信号を引き渡します。なお、1台のRAUからは、複数の天井アンテナ(DASアンテナ)に対して信号を供給することが可能です。このようにすることで、セル・サイトがセルラ・ネットワークのカバレッジを提供するのとほぼ同じように、建造物内で使用されているセルラ端末を網羅する形で音声サービス/データ・サービスが提供されます。
建物内のカバレッジを改善するためには、主に2つの方法が使われます。1つは、信号に対する簡単なリピータとして機能するBDA(RFブースタ)だけを使用する方法です。パッシブDASとして知られるこの方法でも、カバレッジを高めることができます。もう1つが、上述したような形で機能する完全なアクティブDASを使用する方法です。図1は、このアクティブDASの構成を示したものになります。パッシブDASもアクティブDASも、状況に応じて商業ビル内のカバレッジと伝送容量を改善するために使用されます。なお、ハイブリッドDASと呼ばれるものも存在します。これは、パッシブDASとアクティブDASの両方の側面を併せ持つ分配システムのことです。
BDAの役割
RF信号は、ドナー・アンテナから遠く離れた場所まで伝送される間に、長い同軸ケーブルの影響で次第に減衰していきます。パッシブDASは、この問題を回避/緩和するためのものです。この手法では、マルチバンド対応の多様なBDA(RFリピータ)によって再駆動することで信号を増強/増幅します。BDAのフロントエンドには、フィルタ、低ノイズ・アンプ(LNA)に加えて、自動ゲイン制御(AGC:Automatic Gain Control)回路が含まれていることもあります。AGC用のコンポーネントは、RF電力のレベルを制限し、BDAの損傷や信号の歪みが生じないように設計されます。なお、BDAは2方向のRF信号を同時に増幅します。変調処理のように、実際の無線信号に歪みが生じてしまうような処理は行いません。その主な目的は、建造物全体にわたってRF信号の強度を維持することです。ほとんどのBDAモジュールは、複数の通信事業者の信号を同時に増幅できるように設計されています。また、その使用について事業者の同意を得る必要はありません。図2に、BDAのブロック図を示しました。RF信号の増幅と再送信を行うために様々な電子コンポーネントが使用されることがわかります。
RAUの役割
DASのヘッドエンドの主機能はA/D変換です。つまり、単一/複数の事業者から供給されるRF信号をデジタル・データに変換する役割を担います。このような処理を行うことが理由となって、アクティブDASを実装する場合、一般的には各事業者の同意を得ることが必要になります。ヘッドエンドはRF信号をA/D変換し、得られたデータを広帯域幅の光ファイバ・ケーブルによって伝送します。それにより、商業ビルの全体(各フロア)に戦略的に配備されたすべてのRAUに信号(データ)を引き渡すことができます。しかも、広い帯域幅、最大の強度、最小限の損失で、非常に長い距離の伝送が実現されるのです1。この処理によって、干渉に対する信号の感度は格段に低くなります。
RAUは、ファイバを介して送られてきたデジタル・データをアナログのRF信号に変換し直します。得られたRF信号はDASの天井アンテナに供給されます。同軸ケーブルによってリモートの天井アンテナにRAUを接続することで、カバレッジと伝送距離が拡大されます。その結果、すべてのユーザに対してセルラの接続性が優れたレベルで提供されます。図1に示したように、ヘッドエンドとすべてのRAUの間は光ファイバ・ケーブルによって接続されます。
DASにおいて非常に重要な役割を果たすのはRAUです。これによってRFシステムの能力が強化されます。上述したように、RAUの主な機能は、デジタルからRF、RFからデジタルへの変換を行うことです。アナログ・デバイセズは集積度が高くアジャイルなRFトランシーバーICを提供しています。代表的なものとしては「ADRV902x」ファミリが挙げられます。同ファミリの製品は、RAUによる複雑な処理の実行を可能にします。つまり、RAUの基盤になるICコンポーネントです。
図3は、一般的なDASで使用されるRAUのブロック図です。また、表1はRAUでの使用に適したいくつかのICについてまとめたものです。図3の回路には、いくつもの製品が使われていますが、以下では、RFトランシーバーである「ADRV9029」と電源用のいくつかのコンポーネントについてのみ説明を加えることにします。
機能 | 品番 |
ゲイン・ブロック | HMC788A |
RFトランシーバー | ADRV9029 |
RFスイッチ | ADRF5160 |
PLL/VCO | ADF4351 |
クロック・ジッタ・クリーナ | AD9528 |
降圧POLコンバータ | LT8625S, LT8627SP |
LDOレギュレータ | LT1761, ADM7172 |
PMIC | ADP5055 |
シーケンサ | ADM1166 |
PAモニタ、電子フューズ | AD7393, LTC4381 |
PoE対応のPDコントローラ | MAX5969A |
ADRV9029――集積度の高いゼロIF方式のトランシーバーIC
ADRV9029は、ゼロIFサンプリング方式を採用したトランシーバーICです。集積度が高く、広帯域の信号の合成やA/D変換を実行できます。また、周波数分割複信(FDD:Frequency Division Duplex)と時分割複信(TDD:Time Division Duplex)のどちらのアプリケーションでも使用できるようにプログラムすることが可能です。これを使用すれば、セルラ向けのDASのインフラ、特にRAUで求められる性能を達成できます。ADRV9029のデジタル・フロントエンド・ブロックには、競合製品と一線を画す2つの重要な機能が実装されています。デジタル・プリディストーション(DPD:Digital Predistortion)用のアダプテーション・エンジンとクレスト・ファクタを低減するためのCFR(Crest Factor Reduction)エンジンの2つです。なお、DASにおける遅延の要件が非常に厳しい場合には、CFRエンジンをバイパスすることができます。図4にADRV9029の機能ブロック図を示しました。
DPDの効果
ワイヤレス・システムでDPDを利用すれば、パワー・アンプ(PA)を(飽和させることなく)飽和領域の近くまで駆動することができます。それにより、PAの直線性を維持しつつ、効率を高めることが可能になります。DASでDPDを利用すれば、RAUは送信シグナル・チェーンの隣接チャネル漏洩電力比(ACLR:Adjacent Channel Leakage Ratio)の要件を満たしつつ、PAの線形動作領域を拡大して効率を高められるということです。DASのリモート・ノードに配備されたPAにDPDを適用すれば、システム全体としての消費電力の削減にも役立ちます。ADRV9029の場合、オブザベーション・レシーバーのパスをDPDのアクチュエータと係数計算エンジンに接続することで、システムのPAをより高い効率で動作させることが可能になります。
ADRV9029のDPD用のアルゴリズムは、最高200MHzのキャリア帯域幅をサポートします。DPD機能を内蔵する同ICを採用すれば、RFトランシーバーをFPGAベースのDPDソリューションを組み合わせるディスクリート構成の実装と比べて大きなメリットが得られます。すなわち、システム・レベルのコスト、実装面積、消費電力を大幅に削減することが可能です。また、個々のアプリケーションの要件に応じ、ADRV9029のDPDエンジンはGPIO(General-purpose Input/Output)で制御することによって完全にバイパスすることができます。
ACLRは、割り当てられたチャンネルの送信電力に対する隣接無線チャンネルに漏れ出た電力の比です。図5は、LTEの20MHzの信号に対応するベースバンドのデータにDPDを適用することにより、ACLRが改善する様子を表しています。通常、この信号では相互変調歪みによって帯域外の非直線性が生じます。図5のパワー・スペクトル密度のグラフを見ると、DPDの適用後にその非直線性が15dB~20dB低下することがわかります。
CFRの効果
昨今のワイヤレス・システムでは、直交周波数分割多重(OFDM:Orthogonal Frequency Division Multiplexing)のようなマルチキャリア信号がよく使用されます。そのようなシステムでは、OFDMのような技術の本質的な性質に起因して、信号のピーク電力対平均電力比(PAPR:Peak-to-Average Power Ratio)が高くなります。それにより、PAの効率に悪影響が及ぶことがあります。なぜなら、信号のピークがPAの線形動作領域を超えてしまうことがあるからです。CFRの手法を使用すれば、信号にとって必要な範囲を、PAの線形領域内に確実に収めることができます。このことは、システム内のPAPRの影響を緩和/排除することにつながります。
ADRV9029は、PAPRの低減に使われるCFRエンジンを搭載しています。PAPRを低減すれば、RAUのPAはより大きい出力電力に対応できます。その結果、送信ラインにおけるPAの効率は高くなります。なお、ADRV9029は3つのCFRエンジンを内蔵しています。モノリシック型のプラットフォームであるADRV9029は適切に制御され、DPDエンジンがCFRブロックによってプリアシストされます。信号に対するこの連携処理が理由となり、ADRV9029はPAの直線性の維持という面で競合製品と一線を画す性能を発揮します。
ADRV9029のCFR機能は、パルス・キャンセル手法を使用して実装されています。それは、検出されたピークの値から、事前に計算済みのパルスの値を差し引くことによって、信号をPAの線形領域内に収めるというものです。そのためには、キャリアの組み合わせごとにパルスを生成してロードする必要があります。このような処理が必要になることから、CFR機能を使用する場合には遅延が生じます。多くの場合、DASシステムには遅延に関する非常に厳しい要件があります。そのようなケースに対応できるようにするために、ADRV9029のCFR機能は簡単にバイパスできるようになっています。なお、ADRV9029のファミリ製品である「ADRV9026」は、DPDとCFRの機能を搭載していません。
電源の管理
ACLRとEVM(Error Vector Magnitude)は、トランスミッタ側の重要な静的性能の指標です。これらを最大限に改善するためのあらゆる処理を正しく行ったとしても、最高の性能が得られるとは限りません。例えば、RAUのシステム電源の設計をおろそかにしていたとしたら、すべてのシミュレーションは無意味なものになり、適切に行われたすべてのRF設計が台無しになってしまうでしょう。ADRV9029の電源電流は、特にTDDモードで動作する場合、大きく変化する可能性があります。電源からのノイズを制御しなければ、JESD204B/JESD204Cのリンクの性能に影響が及ぶかもしれません。
アナログ・デバイセズは、革新的なスイッチング・レギュレータICやパッケージ技術を続々と開発しています。それらを活用すれば、ADRV9029をはじめとするあらゆるRFトランシーバーICや、5Gに対応するSoC(System on Chip)に必要な電源回路を構築できます。例えば、Silent Switcher® 3を適用したレギュレータICの製品ファミリを使用すれば、低い周波数領域において極めて高いノイズ性能を実現できます。また、高速な過渡応答、高いEMI性能、優れた効率を得ることも可能です。図3に示したように、RAUには「LT8642S」、「LT8625S」、「LT8627SP」が適しています。Silent Switcherに対応する製品については、analog.com/jp/silentswitcherをご覧ください。
Silent Switcher 3を適用したレギュレータを使用する場合、通常はLDOレギュレータを併用する必要はありません。フェーズ・ロック・ループ(PLL)やLNA回路といった電源ノイズの影響を受けやすいアプリケーションでも、通常、LDOレギュレータは不要です。どうしてもLDOレギュレータが必要な場合には、「ADM7172」や「LT1761」を使用するとよいでしょう。また、ADRV9029では、望ましくない突入電流を避けるために特定の電源投入シーケンスを適用する必要があります。これに対応可能なソリューションとしては「ADM1166」を提供しています。
まとめ
セルラ式携帯電話に対しては、信頼性の高い音声/データ通信を実現できることが強く求められています。そうした今日の需要に応えるためには、DASが不可欠です。DASはシームレスな接続性を実現し、セルラ・システムに求められるカバレッジと伝送容量を提供する上で役に立ちます。本稿では、BDA(パッシブDAS)ならびに完全なアクティブDASのソリューションを紹介しました。それらを利用すれば、建造物内におけるセルラの接続性を改善することができます。つまり、建造物の全体にわたりユーザに対して堅牢性の高いワイヤレス接続を確実に提供できるようになります。RAUは、完全なアクティブDASにおける重要な要素です。また、ADRV9029はDASのノードの構成要素として重要な役割を果たします。アナログ・デバイセズは、設計作業を支援するために、リファレンス設計、ユーザ・ガイド、ファームウェアのライブラリ、その他の設計資料などを提供しています。ADRV9029に関する詳細な情報や設計資料、完全な無線評価用ボードについてはこちらをご覧ください。
参考資料
1「Designing Distributed Antenna Systems (DAS)(分散型アンテナ・システム(DAS)の設計)」Advantage Business Media、2016年