はじめに
内燃エンジンを搭載する自動車は、低速で走行しているときにもエンジン音を発します。通常、歩行者をはじめとする人々は、近づいて来る車両や遠ざかる車両を視覚で認識します。ただ、車両が視界に存在しない場合には、タイヤ音やエンジン音などを頼りに聴覚で車両の存在を認識します。
電気自動車(EV)はエンジン音を発しません。ハイブリッド車(HEV)やプラグイン・ハイブリッド車(PHEV)は、低速で走行しているときや内燃エンジンが始動する前は、ほぼ無音で走行します。時速30km未満で走行している場合、聴覚によってそれらの車両の存在を捉えるのは困難です。それ以上の速度になれば、タイヤ音によって認識できる可能性が高まります。
安全性を高めるには、車両が近づいていること、また、どちらの方向から近づいてきているのかということを、視覚障害者や歩行者、自転車の運転者が聴覚で判断できるようにする必要があります。そのため、世界中の規制当局は、PHEV/HEVが電気モードで走行している際に発する音の最小レベルを定めようとしています。例えば、米国運輸省道路交通安全局(NHTSA:National Highway Traffic Safety Administration)は、ウェブサイトにそうした規制の一例を掲載しています。
現在、歩行者にEV/HEV/PHEVの存在を知らせることを目的としたシステムが開発されています。それが、電気自動車警告音システム(EVWSS:Electric Vehicle Warning Sound System)です。このシステムを搭載した自動車は、走行している際に一連の音を生成することで、自身の存在を人々に周知します。警告音(自動車のクラクションに似ているものの、それよりも緊急性を感じにくい音)は運転者の意思で鳴らすこともできますが、低速走行時には自動的に発せられるようになっています。警告音としては、人工的なトーン、エンジン音、砂利の上を走行するタイヤ音を模したリアルな音など、様々なものが用意されます。
アナログ・デバイセズは、このEVWSS向けに2種類のソリューションを提供しています。1つは、EVの車内向けのエンジン音と外部向けのエンジン音を必要とする高度なアプリケーション向けのものであり、Blackfin+®プロセッサ「ADSP-BF706」をベースとしています。もう1つは、エントリレベルのシステム向けのソリューションであり、SigmaDSP®を搭載したオーディオ・プロセッサ「ADAU1450」をベースにしています。これらのソリューションの主機能としては、音の合成、走行速度に応じた周波数/音量などのパラメータ調整、オーディオ用パワー・アンプへの音声信号の送出が挙げられます。また、特定の規制で定められた要件に基づき、内燃エンジンの音やそれ以外の任意の合成音を使用して警告音のシミュレーションを行うこともできます。
Blackfinベースのソリューション
ADSP-BF706は、オーディオ処理とCAN(Controller Area Network)バスへのインターフェースを実現するシングルチップのソリューションです。アナログ・デバイセズは、同IC上で実行できるCAN向けのソフトウェア・スタック(CANスタック)を開発しました。これを使用することにより、最小限の労力で車載グレードのデモを構築することができます(Vector®のCANスタックも使用可能です)。また、すべてのハードウェアとソフトウェアを含むリファレンス・デザインも提供しています。パラメータのライブ・チューニングが行えるように、「SigmaStudio®」と併用できるようになっています。
図1に、ADSP-BF706の使い方を表す簡単なブロック図を示しました。外部のオーディオ波形ファイル(WAVファイル)には、特徴的なエンジン音やオーディオ・トーンのデータを保存しておきます。ADSP-BF706のSPI(Serial Peripheral Interface)により、最大25個のWAVファイルに同時にアクセスできます。これらのファイルに対しては、DSPによって周波数シフトとミキシングが施され、ダイナミック・ボリューム・コントロールが適用されます。
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ADSP-BF706では、外付けのメモリに対する高速で簡素化されたアクセスを提供するメモリ・マップドSPIを利用できます。そのため、このアプリケーションでは、外付けメモリとしてDDR(Double Data Rate)メモリを使用する必要はありません。最大25個という多くのWAVファイルに同時にアクセスできることは、よりリアルなエンジン音の生成に役立ちます。
また、車両の速度が高まれば、それに応じて出力音の周波数を高める必要があります。ADSP-BF706を使用すれば、NHTSAが推奨する最大16倍のピッチ・シフトを実現することができます。また、CANバスからの情報を利用し、自動車の速度に応じて音量を動的に制御することも可能です。
図2に示したのは、より詳細なシステム・ブロック図です。図中の「LT8602」は、同期整流方式のモノリシック型クワッド降圧レギュレータです。このPower by Linear™製品は、12Vの車載バッテリから電力を得て、システムに必要なすべての電源電圧を供給します。2MHzのスイッチング周波数に対応できるので、AM帯のようなノイズを受けやすい周波数帯域への影響を抑えられます。入力電圧範囲が3V~42Vと広いので、入力電圧が最小3Vまで低下するコールド・クランクやアイドリングストップ、40Vを超える負荷ダンプ・トランジェントに対応しなければならない車載アプリケーションに最適です。.
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別の構成のシステム・ブロック図を図3に示しました。このシステムでは、車載向けのコネクタを使用して関連するすべての信号を伝送することにより、ペリフェラルの数を減らしています。この構成を採用すれば、サイズの縮小が可能になります。
このシステムでは、ADSP-BF706がマイクロコントローラ兼オーディオ・プロセッサとして機能します。そのため、システムの部品(BOM:Bill of Materials)コストが削減されます。

ソリューションの詳細については、ソフトウェアのダウンロード・パッケージに含まれているEVWSS v1 Demo ManualとEVWSS v2 Demo Manualを参照してください。ソフトウェア・パッケージ(EVWSS-BF_SRC-Rel2.0.0)は、アナログ・デバイセズのウェブサイトにおいて、SRF(Software Request Form)のページからリクエストしていただくことで入手できます。ADSP-BF706の詳細については、ADSP-BF70x Blackfin+™ Processor Hardware ReferenceとADSP-BF7xx Blackfin+™ Processor Programming Referenceをご覧ください。
ADSP-BF706のEVWSS用ソフトウェア・アーキテクチャ
EVWSS用のソフトウェア・アーキテクチャは、ADSP-BF706のハードウェア・アーキテクチャに基づいています。ソフトウェア・アーキテクチャがハードウェアのアーキテクチャに依存する理由は、メモリ・マップドSPIにあります。CANのインターフェースは、メモリ・マップドSPIを使用することで、フラッシュ・メモリのデータを直接読み出すことができます。この機能によって、警告音を生成のためのメモリ・アクセスが効率的になると共に、EVWSSのライブラリの複雑さが緩和されます。
ソフトウェア・コンポーネント
続いて、ソフトウェア・コンポーネントについて詳しく説明します。EVWSS用のソフトウェア・アーキテクチャは、図4に示すコンポーネントで構成されます。
SPORTのコールバック機能は、オーディオ・データのサンプル・レートにマッピングされ、SPORTのトランシーバーにおける割込みサービス・ルーチン(ISR:Interrupt Service Routine)のコンテキストで実行されます。フラッシュ・メモリに格納されたファイル(SPIメモリ・マップド)を読み出し、EVWSSのライブラリを使用してオーディオ処理を行います。処理後のオーディオ・データは、SPORTのトランシーバーのインターフェースに送出されます。EVWSSのライブラリには、警告音を合成するための様々な機能が用意されています。また、EVWSSのライブラリは、CANスタック(またはデバッグ用のUART[Universal Asynchronous Receiver Transmitter]インターフェース)から、自動車の速度に関する情報を入力として受け取ります。AB級のオーディオ用パワー・アンプである「TDA7803」(STMicroelectronics製)は、ドライバによって駆動します。この外付けのパワー・アンプが制御されて警告音が発せられます。EVWSSのアプリケーション・フレームワークは、システムのペリフェラル、CANスタック、TDA7803用のドライバの構成を担います。
EVWSSのライブラリで提供される機能
以下では、EVWSSのライブラリによって提供される機能について説明します。詳細については、ソフトウェアのダウンロード・パッケージに含まれるEVWSSのリリース・ノートを参照してください。
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ピッチ・コントロール
ピッチ・コントロールとは、制御入力に基づいてオーディオ信号の周波数をシフトする処理のことです。EVWSSのアプリケーションでは、車体の速度の情報を表す入力に応じてWAVファイルのベース・ピッチがシフトされます。
周波数変調と振幅変調
エンジンの音は、吸気、圧縮、爆発(膨張)、排気というエンジンのストロークに依存します。これらのストロークにより、単なるトーンではなく、周波数変調が施されたトーンが生成されます。サンプル・データの全体にわたってピッチ・シフトのパラメータを変化させることにより、周波数変調が実現されます。
このアプリケーションでは、のこぎり波と三角波という2種類の変調が使われます。のこぎり波変調では、周波数が最低値から最高値まで滑らかに上昇した後、最低値に急降下します。三角波変調では、周波数が最低値から最高値まで滑らかに上昇した後、最小値まで滑らかに下降します。
オーディオのミキシング
オーディオ信号のミキシングを行うために、自動車の速度に応じて様々なゲインを設定できます。
WAVファイルの再生
必要なWAVファイルはフラッシュ・メモリに格納されていますが、動的な条件に応じて、WAVファイルの一部を再生/停止することが可能です。
SigmaDSPベースのソリューション
エントリレベルのアプリケーションでは、ADSP-BF706の代わりにSigmaDSPを採用したADAU1450を使用できます。評価用ボードとして「EVAL-ADAU1452」も提供されています。
図5に、SigmaDSPを採用したADAU1450の使い方を表す簡単なブロック図を示しました。
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ADAU1450では、プログラミング環境としてSigmaStudioを使用できます。ソフトウェアに対する以下の要件がサポートされます。
- マルチトーンの生成
- 最大64レンジのダイナミック・ボリューム・コントロール
- サウンド・ミキシング
- リミッタ
- 車体の速度の上昇に伴ってオーディオ信号のピッチを高めるピッチ・シフト
- SPIに対応するフラッシュ・メモリに格納された最大5個のWAVファイルを同時再生
SigmaStudioには、エンジン音用のシミュレータ・モジュールが含まれています。これを利用することで、エンジン音のチューニングを簡素化し、同時に必要となるWAVファイルの数を減らすことができます。このシミュレータによって、最大32種の高調波を生成することが可能です。高調波の次数と振幅は、GUI(Graphical User Interface)を使ってプログラムすることができます。
高調波を生成するモジュールは、ESS Toolboxの一部として提供されます。これらは、SigmaStudio(Rev 4.4以降)のダウンロード・ページから直接ダウンロードすることが可能です。なお、SigmaStudioはCANのソフトウェア・スタックをサポートしておらず、外部のマイクロプロセッサを必要とすることに注意してください。
SigmaStudio
SigmaStudioは、元々はSigmaDSPに対応するプロセッサ製品群向けに設計されたグラフィカル・プログラミング環境です。このソフトウェアには、車載アプリケーション専用に開発されたアルゴリズムのライブラリが組み込まれています。GUIによって簡単にチューニングが行えるだけでなく、コードを記述することなくその場で変更を加えることが可能な制御機能とフィルタの係数が提供されています。SigmaStudioは、アナログ・デバイセズのSigmaStudioのページからダウンロードできます。
まとめ
アナログ・デバイセズは、エントリレベルのEVWSSと、車内向けのエンジン音と外部向けのエンジン音をサポートする高度なEVWSSを対象とした包括的なソリューションを提供しています。本稿は、意思決定のプロセスを簡素化し、製品を市場に投入するまでにかかる時間を短縮することを目的としたものです。アナログ・デバイセズは、ラピッド・プロトタイピングや製品の開発に必要なソフトウェア・コンポーネントを含む完全なシステム・ソリューションを提供しています。