概要
デジタル・プリディストーション(DPD:Digital Predistortion)について書かれた多くの文献では、静的かつ定量的なデータを基にして同機能の効果が示されています。DPDを適用した場合のスペクトルと、隣接チャンネル漏洩電力比(ACLR:Adjacent Channel Leakage Ratio)の値を示すというのが一般的な方法だと言えるでしょう。しかし、その方法では、基本的な要件を満たしていることは確認できるものの、現実のシステムに適用した場合に生じる課題やリスク、性能のトレードオフについて容易に把握することはできません。現在は、5Gへの移行が急速に進んでいる状況にあります。それに伴い、新たな課題が次々と顕在化しています。そのため、アルゴリズムの開発者や装置のベンダーには、これまで以上に慎重な検討が求められています。多くの要素が変動する複雑な環境において、性能と安定性を維持するのは容易なことではありません。それらの実現に向けて重要になるのは、静的な性能の背景にある条件について詳しく理解することです。
はじめに
理想的なパワー・アンプ(PA)は、入力信号をそのまま増幅して出力します。つまり、PAに供給された電力のほとんどは出力信号に引き渡されます。言い換えれば、効率は最大となり、歪みも生じません。しかし、実際にはそのようなことは起こり得ません。現実のPAの効率は、非常に低くなる傾向があります。例えば、ケーブル・ベースの分配システムに使用されるアンプは、優れた直線性を発揮します。その代わり、効率は非常に低くなります。多くの場合、その値はせいぜい6%程度です。つまり、残る94%の電力は無駄になるということです。経済的にも環境的にも損失が生じることとなり、アプリケーションのコストがかさむという結果になります。セルラ式携帯電話の基地局では、運用コストの50%以上を電気料金が占めます。無駄な電力が生じるということは、より多くの温室効果ガスを発生させて発電した電力を、より多く無意味に費やしたということを意味します。また、無駄な電力の大半は無線の電波として放射されるのではなく、熱として放散されます。したがって、能動的/受動的な熱管理が必要になります。
ここ数十年の間に、セルラ業界ではPAの効率が50%以上のレベルまで改善されました。これは、ドハティ・アンプなどの巧妙なアーキテクチャや、GaNなどの先進的なプロセス技術が導入された結果です。しかし、そのレベルの効率と引き換えに直線性は失われてしまいます。直線性の低いセルラー・システムでは、主に2つの問題が生じます。1つは帯域内の歪み、もう1つは帯域外の放射です。帯域内の歪みが生じると、送信信号の忠実度が損なわれます。その影響は、エラー・ベクトル振幅(EVM:Error Vector Magnitude)の性能の低下として現れます。一方、帯域外の放射が生じると、3GPP(Third Generation Partnership Project)が定義するエミッション・マスクの要件を満たせなくなります。その場合、隣接するチャンネルの周波数を使用する事業者にとって望ましくない干渉が生じる可能性があります。一般に、この性能はACLRを測定することによって評価されます。GaNベースのPAは、電荷のトラップ効果が原因で帯域内の歪みが生じるという問題も抱えています。これらは本質的に動的な要素であり、ACLRで表されるS/N比とは関係ありません。
上述した理由から、PAの非直線性を補正することが重要であることがわかります。仮に、PAの伝達関数が明らかになっている(固定的に定まっている)としましょう。その場合、その逆の特性を持つ処理を適用すれば、非直線性を打ち消すことができるはずです。しかし、現実のPAの伝達関数は動的に変化します。つまり、PAの出力は、入力に依存して連続的に変動するということです。また、その伝達関数は、電力、電圧、温度などに関するPAの特性や、PAに供給される入力信号、PAがそれまでに処理した過去の信号(メモリ効果)の組み合わせに応じて動的に変動します。つまり、PAの補正を行うには、その動的かつ非線形な動作を事前にモデル化しておく必要があるということです。DPDに対する要件は、環境の動的な要因に応じて変化します。言い換えれば、DPDは環境の動的な変化に適応できるように構築されていなければなりません。
DPDを実現する多くのシステムでは、観測、推定、作動(アクチュエーション)の3つが中核的な要素になります。そのシステムは、図2のような概念図で表すことができます。その基本的な考え方は、PAに期待される応答に従うモデルを生成するというものになります。つまり、PAの非線形な動作を予測し、その影響を打ち消すための適切なキャンセル信号を生成できるモデルを用意するということです。DPDでは、普遍的な一般化メモリ多項式(GMP:Generalized Memory Polynomial)をはじめとする数多くのモデルが使用されています。
PAが線形領域で動作していれば、帯域外の歪みはあまり生成されません。図3に示すように、隣接チャンネルに漏れるノイズのレベルはかなり抑えられます。図3は、一般的な実験環境においてスペクトラム・アナライザで取得したスクリーンショットです。このような評価は、ACLRに代表されるDPDの静的な性能が、多くの適合試験で求められる基準を満たしていることを確認するために行われます。
市場の進化、性能の改善、目標の変化
セルラ式携帯電話の基地局では、1990年代からDPDが実用化されています。その配備数は800万件を超えます。セルラ市場における各世代(2G、3G、4Gを経て現在は5G)の技術と要件の変化に伴って、DPDに対する要件も変化してきました。その結果、帯域幅の拡大、大電力化、搬送波の配置、ピーク対平均信号比の向上、基地局の数/密度の増加などが現在の課題として挙げられます。
装置のベンダーは、差別化が可能な自社製品を開発すべく必死に取り組みを行っています。当然のことながら、関連する3GPP仕様で定められている効率を満たせるよう性能の改善に努めなければなりません。しかし、PAの効率は現在でも大きな課題となっています。従来、改善を後押しする主要な要因は、運用コストと熱管理でした(それらに伴うハードウェアのコストと重量の問題を含みます)。それらに加え、現在では環境に対する配慮も改善を促す要因になっています。
PAとDPDは、部分的に共生関係にあるとも言えます。PAにDPDを適用しやすいケースもあれば、適用が難しいケースもあります。また、あるサプライヤのDPDと相性の良いPAが、他のサプライヤのDPDとは相性が悪いといったことも起こります。一般的には、DPDとPAの両方が、特定のアプリケーションに対して構成/調整されている場合に最適な性能が得られます。しかし、PAの設計は、5Gやそれ以降の世代で求められる厳しい要件に応じて絶えず進化(変化)していくことになります。それに伴って、DPDも追加の要件に対応するために進化を遂げる必要があります。現在では、広帯域に対応するアプリケーションやデュアルバンドのアプリケーションが標準的になってきました。それに応じて、期待される性能を維持しつつ、より高い周波数、より広い帯域幅に対応可能なPAを開発することが求められています。しかし、200MHz以上の帯域幅に対応できるPAを開発するのは容易ではありません。3GPPの仕様と効率に関する要件を確実に満たしつつ、そのような帯域幅に対応するのは更に困難です。その結果、この課題の解決は、DPDの開発者に委ねられることになります。
課題の理解
DPDの性能を定量化する作業は、単純明快なものではありません。一連の条件と状況の組み合わせについて検討する必要があります。PAだけが対象になるのではなく、他にも多くの依存関係が存在します。性能について検討する際には、テストの具体的な条件を明確に定義しなければなりません。200MHzの帯域幅で50%以上の効率を達成するのは、20MHzの帯域幅で同じ効率を達成する場合と比べてはるかに難易度が高くなります。割り当てられた帯域内における搬送波の配置について考えると、状況は更に複雑になります。おそらく、搬送波が連続的な信号である場合もあるでしょう。ただ、搬送波がセグメント化されて割り当てられ、帯域の所々が占有されている状態になるケースもあるはずです。
先述したように、DPDの性能についての定量的な指標は存在します。3GPPの仕様や通信事業者からの要件として定義されているACLR、EVM、効率などがそれに当たります。しかし、それらは、DPDの性能を表す指標のほんの一部にすぎません。例えば、安定性と堅牢性も考慮に入れると、課題の大きさが見えてきます。DPDの性能には、2つの重要な側面があります。1つは実験室で計測されるレベルの静的な性能、もう1つは現実の運用時に求められる動的な性能です。
図4に、動的な環境における信号の様子を示しました。動的な要因に関する課題を明らかにするために、DPDの連続的なアダプテーション(適応)によってACLRがどのように変化するのかを示しています。図中の数値は、概念レベル(目安、便宜上)のものです。このグラフは、信号が突然変化したときの影響を表しています。極端な例ですが、現実に起こり得る状況です。信号に変化が生じると、DPDのモデルがそれに適応します。図4では、アダプテーションのイベントはドットで示してあります。信号が変化してから次のアダプテーションが行われるまでのトランジェント時間の最中には、モデルと信号の間にミスマッチが生じます。その結果、ACLRの値が増大します。つまり、トランジェントの最中には、エミッションに関する要件を満たせない可能性が高まるということです。
アダプテーションにはある程度の時間がかかります。したがって、必ずトランジェントが生じます。高い性能が求められるDPDの課題は、両方の状態の間のスムーズな遷移を確保しつつ、モデルのミスマッチが生じる時間を最小限に抑えることです。このプロセスは、アダプテーションの速度とACLRへの影響の両方を考慮して管理する必要があります。モデルのミスマッチが信号の遷移の性質にどのように依存するのかを理解することが重要です。ミスマッチが大きいと、DPDによって性能が低下してしまうおそれがあります。最悪の場合、無線の安定性が失われてしまうかもしれません。そうなると、DPDのアルゴリズムは転がり落ちる雪玉のように制御不能な状態になります。エミッション・マスクの範囲を一気に外れ、場合によっては無線用のハードウェアが損傷する可能性もあります。性能と安定性のうちどちらかを選択しなければならない場合には、必ず安定性を優先しなければなりません。設計を行う際に、より重要な検討項目として扱う必要があるということです。DPDの機能は、堅牢性が得られるように設計します。つまり、正常時と異常時の両方の条件の下で安定性を確保し、障害からの復旧を果たせるようにしなければなりません。
高性能で実用的なDPDシステムを実現する上での課題は、以下のようにまとめることができます。
- 静的な性能(適合試験、または基地局のトラフィック負荷がほぼ一定な場合に求められる性能)
- ACLR
- EVM(GaNを特殊なケースとして含む)
- 動的な性能
- 堅牢性
アナログ・デバイセズは、DPDシステムを提供するサードパーティのベンダーとして位置づけられます。そのため、以下の項目についても検討する必要があります。
- 保守
- 通信事業者が当社の顧客(OEM)の製品を配備する際に生じる性能の問題を解決しなければなりません。
- 進化
- 現場で運用されている間に、PAに関する技術や信号空間のアプリケーションが進化する可能性があります。
- 汎用性
- OEM は製品ごとに DPD の微調整を行うことができます。一方、当社はそのようなことができる立場にはありません。当社は、構成可能性と冗長性を最小限に抑えつつ、多くのアプリケーションのニーズに対応する必要があります。
課題の解決に向けたDPDの性能改善
静的な性能だけについて考えるなら、DPDには直線的な進歩が可能な部分があります。例えば、DPDに使用するリソースを増やせば、性能を高めることができます。GMPの係数の数を増やすことにより、PAの動作をより正確にモデル化するといった具合です。帯域幅が拡大し続けるなか、この方法は、仮に性能を高められないとしても、性能を維持するための戦略の1つにはなり得ます。しかし、この方法には限界があります。あるレベルに達すると、リソースを追加してもほとんどあるいは全く効果が得られなくなるのです。したがって、DPDのアルゴリズムを開発する技術者には、更なる改善を図るためのより創造的な方法を適用することが求められます。アナログ・デバイセズの場合、ベースとなるアルゴリズムのGMPを、より汎用的な基底関数と、より高次のヴォルテラ積分方程式で拡張するという方法を採用しています。PAの動作を正確に予測可能なモデルを作成しようとする場合、データの蓄積と操作が重要な要素になります。つまり、データを連続的に取得し、電力のレベルを監視できるようにしなければなりません。このことが、評価を行い、モデルの振る舞いを形づくるための準備になります。図5は、この方法を採用したDPDシステムの概念図です。より広範にわたってデータの取得/観測を行うノードを、デジタルのパワー監視機能と組み合わせている点に注目してください。パワー監視機能は、動的な要因に対する適応動作に役立ちます。蓄積されてきたモデルを様々な方法で利用することにより、先述した動的なトランジェントを緩和することができます。
最近では、GaNベースのPA技術に伴う新たな課題が浮上しています。それは、メモリ効果が長期的に生じるという問題です。GaNベースのデバイスには、効率、帯域幅、動作周波数の面で数多くの顕著な長所が存在します。但し、電荷のトラッピング効果として知られる現象が生じるという欠点も抱えています。GaNの場合、発生したトラップは熱によって解消されます。そのことが原因で長期的なメモリ効果が生じるのです。GMPをベースとするDPDでは、この誤差の一部しか補正できません。そのため、残余誤差により、信号品質に対して継続的に影響が及びます。その影響は歪みとして現れ、結果としてEVMが増大します。図6は、この現象をグラフで表現したものです。PAのゲインが変動していますが、ここではその時間方向の挙動に注目してください。また、トラップが起きた状態とトラップが解消した状態が生じ、電力が低下したときにトラップが解消される点にも注目してください。
このメモリ効果は長く続くことから、従来の方法をベースとする場合、非常に多くのサンプルを取得する手法が提案されています。つまり、大量のデータを保存して処理を行うということです。しかし、この方法では、メモリのコスト、チップの実装面積、処理にかかるコストが増大します。そのため、実用的な選択肢だとは言えません。DPDの開発者は、電荷のトラップによる影響を打ち消す必要があります。ただ、それは効率的な実装や動作を実現できるように行わなければなりません。アナログ・デバイセズのトランシーバー「ADRV9029」には、電荷トラップ補正(CTC:Charge Trap Correction)機能が実装されています。これは、消費電力と演算時間の観点から、非常に低コストで補正を実現できる機能だと言えます。このCTCにより、3GPPの仕様の範囲内にEVMを抑えられるという結果が得られています。新世代品である「ADRV9040」には、更に巧妙なソリューションが適用されています。現在は、電荷のトラップについて固有の特性を示すGaNベースのPAがますます増加している状況にあります。ADRV9040を採用すれば、そうした多様なPAに対応し、動的な環境においてより高い性能を達成することができます。
前述したとおり、DPDにおいて安定性は最も重要な要素です。堅牢性は、内部の状態を連続的にモニタリングし、異常な状態に対して迅速に応答することによって得ることができます。
アナログ・デバイセズのソリューションは、高い汎用性を実現しています。これは、多くのベンダーが提供する多様なPAを対象として十分なテストを実施した成果です。当社は、技術的な面で、そうした多くのベンダーと共生的な関係を構築しています。
まとめ
DPDについては、残念ながら、静的な性能だけに焦点を絞って語られるケースが少なくありません。EVMやACLRの測定は、もちろん有用です。しかし、どのような条件や要件を組み合わせた状態でそれらの測定が行われたのかということについては、十分に注意を払わなければなりません。5G NR(New Radio)に代表されるように、通信アプリケーションに対する要件は厳しくなる一方です。また、PAについては更なる効率の向上が求められています。したがって、DPDのアルゴリズム開発に対しては、より複雑な課題が突き付けられることになります。
DPDの性能の評価に着手する際には、以下の項目について考慮した包括的な方法を採用する必要があります。
- 静的な性能
- 動的な性能
- 堅牢性
- 安定性
仕様をギリギリで満たすDPDは、望ましいものではありません。仕様の範囲を一時的に逸脱する可能性のあるDPDは、事業者に不安を与えるからです。また、エミッションに関する要件を満たさず不安定なDPDは、PAを損傷させてしまう可能性があります。DPDのアルゴリズムは、入手後、すぐに使用できるものではありません。使用するPAとアプリケーションに応じてDPDを調整しなければ、最適な性能は得られないからです。このことから、アルゴリズムのアジリティと開発サポート/フィールド・サポートも重視すべき項目になります。DPDの優れたアルゴリズムは、システムに対して大きなメリットをもたらします。しかし、要件の複雑さと性能評価の複雑さを、決して過小評価してはなりません。