はじめに
複素ミキサー、ゼロIFアーキテクチャ、先進的なアルゴリズムの間には興味深い相互関係があります。本稿では、まずそれぞれの基本的な原理とシステム設計における有用性について説明します。そのうえで、これら3つの相互関係に関する考察を加えます。
エレクトロニクスの分野において、RF技術が“黒魔術”のように扱われることは少なくありません。数学と力学、場合によっては単なる試行錯誤が複雑に絡み合うこともあります。RF技術は多くの優秀な技術者に不安をもたらす存在にもなり得ます。実際、その詳細にまで踏み込むことなく、概要を理解することで納得している人もたくさんいます。RF技術に関する文献は、その根底にある概念を明示することなく、一足飛びに理論や数学的な説明を始めるものが少なくありません。
RF対応の複素ミキサーの謎を解く
図1に示したのは、複素ミキサーを使って構成したアップコンバータ(トランスミッタ) です。2つの並列パス(チャンネル)のそれぞれにミキサーが配置されています。これらのパスには、共通の局部発振器(LO) から位相が90°異なる信号が供給されます。2つのミキサーからの出力は加算アンプで足し合わされ、所望のRF出力が生成されます。
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この構成は、アプリケーションによっては非常に有用です。図2に示すように、トーン( 単一周波数の信号) をIチャンネルだけに入力し、Qチャンネルの入力は駆動しないようにしたとします。Iチャンネルに入力したトーンの周波数がxMHzであるとすると、Iチャンネルのミキサーは[LOの周波数] ±[ x] の出力を生成します。一方、Qチャンネルの入力には信号は印加していないので、Qチャンネルのミキサーは空のスペクトルを生成することになります。その結果、Iチャンネルのミキサーの出力がそのままRF出力となります。
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次に、周波数がxのトーンをQチャンネルにだけ入力したとします(図3)。その場合、Qチャンネルのミキサーは[LOの周波数]±[x]の信号を出力します。Iチャンネルに何も入力していなければ、Iチャンネルのミキサーの出力には何も生成されません。その結果、Qチャンネルのミキサーからの出力がそのままRF出力になります。
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図2と図3の出力は、一見するとまったく同じであるように思えるかもしれません。しかし、実際には大きく異なる点があります。それは位相です。図4に示すように、I/Q両チャンネルに同じトーンを入力するとします。ただし、それぞれのトーンには90°の位相差を持たせると仮定します。
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ミキサーの出力をよく見ると、[LO周波数]+[入力周波数]の信号は同相、[LO周波数]-[入力周波数]の信号は逆相であることがわかります。そのため、LOの上側( 周波数が高い) のトーンは加算され、LOの下側(周波数が低い)のトーンは相殺されます。つまり、フィルタ処理を行わなくても、トーン(サイドバンド)の1つは除去され、LO周波数の上側の出力だけが生成されるということです。
図4の例では、Iチャンネルの信号はQチャンネルの信号より位相が90°進んでいます。Qチャンネルの信号がIチャンネルより90°進むように構成を変更した場合も、同様に加算と相殺が行われるはずです。ただし、その場合にはLOの下側の信号だけが出力されます。
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図5に示したのは、実験によって複素トランスミッタの出力を測定した結果です。左のグラフは、Iチャンネルの信号がQチャンネルの信号より90°進んでいる状態を表しています。この条件では出力トーンはLOの上側に現れます。逆に、右のグラフは、Qチャンネルの信号がIチャンネルの信号より90°進んでいる場合の結果です。出力トーンはLOの下側に現れています。
理論的には、LOの片側だけに全てのエネルギーが存在する状態を作れるはずです。しかし、図5の実験結果のとおり、実際にはLOのもう一方の側のエネルギーが完全に除去されることはなく、イメージと呼ばれるエネルギーが残存します。また、LOの周波数にも、LOリーク(LOL)として知られるエネルギーが現れることにも注意してください。さらに、所望の信号の高調波も生じていますが、これについては本稿では触れません。
完全にイメージを除去するには、I/Q両チャンネルのミキサーの出力は振幅がまったく同じで、かつLOのイメージ側におけるそれぞれの出力の位相は正確に180°異なっている必要があります。位相と振幅の要件が満たされていなければ、図4で示した加算/除去の処理は不完全なものとなり、周波数イメージとしてエネルギーが残存します。
予想される結果
単一のミキサーを使用する従来のアーキテクチャでは、LOの両側に信号成分が生成されます。そのため、送信を行う前にサイドバンドの一方を取り除く必要がありました。通常、それにはバンドパス・フィルタを使用します。そのフィルタは、所望の信号に影響を及ぼすことなく不要なイメージ信号を除去できるロールオフ特性を有していなければなりません。
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イメージと所望の信号の間隔は、フィルタの要件に対して直接影響を及ぼします。間隔が広ければ、シンプルでロールオフが緩やかな低コストのフィルタを使用できます。一方、間隔が狭い場合には、急峻な応答のフィルタを使わなければなりません。そのため、通常は多極フィルタやSAW(弾性表面波)フィルタが使用されます。イメージと所望の信号の間隔は、イメージが所望の信号に影響を及ぼすことなく除去できるように確保しなければなりません。また、その間隔はフィルタの複雑さとコストに反比例すると言うこともできるでしょう。さらに、LOの周波数が可変である場合、フィルタも対応周波数を調整できるものにしなければなりません。それによってフィルタはさらに複雑化することになります。
イメージと所望の信号の間隔は、ミキサーに与える信号によって決まります。図6では、帯域幅が10MHzで、DCから10MHzシフトした位置にある信号を例にとっています。この場合、ミキサーの出力では、所望の信号から20MHz離れたところにイメージが生成されます。この構成において、10MHz幅の所望の信号を出力として得るには、ミキサーに対して20MHzのベースバンド信号パスを設ける必要がありました。ベースバンド帯域幅のうち10MHzは使用せず、ミキサー回路に対するインターフェースのデータレートは必要以上に高くなります。
図5で示したような複素ミキサーのアーキテクチャでは、外部のフィルタ処理を使うことなくイメージを除去できることがわかります。また、ゼロIFアーキテクチャでは、信号パスで処理する帯域幅が、所望の信号の帯域幅と等しくなるように効率を最適化することができます。図7は、その実現方法を示した概念図です。先述したように、Iチャンネルの信号がQチャンネルの信号より位相が90°進んでいる場合、出力は理想的にはLOの上側だけに現れます。一方、Qチャンネルの信号がIチャンネルの信号より90°進んでいる場合には、出力はLOの下側だけに現れます。ここで、独立した2つのベースバンド信号を生成し、1つはサイドバンドの上側のみに出力するように、もう1つはサイドバンドの下側のみに出力するように設計したとします。その場合、2つの信号はベースバンド領域で加算され、複素トランスミッタに送られます。その結果、出力には、LOの上下に異なる信号が現れます。実際のアプリケーションでは、結合されたベースバンド信号がデジタル的に生成されます。なお、図7の加算ノードはこのような概念を示すために描いたものです。
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ゼロIFがもたらすメリット
上記のようにすることで、複素トランスミッタを使用して単一のサイドバンド出力を生成することができます。この方法を採用すれば、RFフィルタによるイメージの除去の面で大きなメリットが得られます。しかし、無視できるレベルまでイメージを低減可能な除去性能があれば、ゼロIFアーキテクチャをもっと効果的に利用できます。ゼロIFアーキテクチャでは、特別に生成したベースバンド・データを使用することにより、LOの片側に独立した信号が現れるRF出力を生成することが可能になります。図8は、その具体的な方法を示したものです。ここでは2組のI/Qチャンネルのデータがあり、それぞれが互いに独立しているものとします。レシーバでは、それらがリファレンス・キャリアの位相に対してデコードが可能なシンボル・データとしてエンコードされます。
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最初の波形では、Q1はI1より90°位相が進んでおり、振幅は同じであることがわかります。同様に、I2はQ2より90°進んでおり、振幅は同じです。ここでI1+I2=SumI1I2、Q1+Q2=SumQ1Q2となるように、2つの独立した信号を結合します。加算されたI/Qの信号には、位相や振幅の相関関係はありません。振幅は常に等しいわけではなく、位相関係も変化します。ミキサーからの出力としては、図7に示したように、I1/Q1のデータがキャリアの片側に、I2/Q2のデータがキャリアのもう一方の側に現れます。
ゼロIFアーキテクチャでは、独立したデータ・ブロックがLOの両側に隣接して配置されることから、複素トランスミッタのメリットはさらに強化されます。データ処理を行うパスの帯域幅は、RFデータの帯域幅を超えることはありません。そのため、理論的にはゼロIFアーキテクチャで使用される複素ミキサーによってベースバンドのパワー効率が最適化されます。同時に、RFフィルタによる処理を必要としないソリューションが得られ、未使用の信号帯域幅における単位当たりのコストを低減することが可能になります。
ここまでは、ゼロIFトランスミッタを実現する複素ミキサーに注目して話を進めてきました。同じ原理を逆に作用させれば、複素ミキサーのアーキテクチャをゼロIFレシーバとして使用できます。トランスミッタについて述べてきた利点は、レシーバにも同じように当てはまります。単一のミキサーを使用して信号を受信する場合、イメージはRFフィルタによって最初に除去する必要があります。ゼロIFのシステムとして機能させる場合、注意が必要なイメージ周波数というものはなく、LOの上側の信号はLOの下側の信号とは独立して受信されます。
図9に複素レシーバの概要を示しました。IチャンネルとQチャンネルのミキサーには入力信号が与えられます。一方のミキサーはLOで駆動され、もう一方はLOとは90°異なる位相で駆動されます。レシーバはIチャンネル/Qチャンネルの信号を出力します。
レシーバの場合、与えられた入力に対する出力を実験的に確認するのは容易ではありません。ただ、入力となるトーンの周波数がLOより高い場合、図に示すように、I/Qチャンネルの出力周波数は[トーン-LO]になります。また、QチャンネルはIチャンネルよりも位相が遅れると予測できます。同様に、入力となるトーンの周波数がLOより低い場合には、I/Qチャンネルの出力周波数は[LO-トーン]になります。その際、Qチャンネルの位相はIチャンネルよりも進んでいるはずです。このようにすることで、複素レシーバではLOより上側のエネルギーとLOより下側のエネルギーを分離することができます。複素レシーバの出力は、LOより上側の受信スペクトルで表されるI/Qチャンネルの情報と、LOより下側の受信スペクトルで表されるI/Qチャンネルの情報の和になります。これは、複素トランスミッタについて説明した概念と同じです。複素トランスミッタには、Iチャンネルの信号の和とQチャンネルの信号の和が送られます。それに対し、複素レシーバでは、Iチャンネルの信号の和とQチャンネルの信号の和それぞれの情報がベースバンド・プロセッサに入力されます。同プロセッサで複素FFT(高速フーリエ変換)を実施することにより、上側の周波数と下側の周波数に容易に分離することができます。
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加算されたIチャンネルの信号と加算されたQチャンネルの信号は既知の信号です。ただ、I1、Q1、I2、Q2の4つは未知の信号です。既知の信号より未知の信号の方が多いので、I1、Q1、I2、Q2は求められないように思えるかもしれません。しかし、実際にはI1=Q1+90°、I2=Q2-90°であることはわかっています。そのため、これら2つの式を加えれば、I1、Q1、I2、Q2を求めることができます。そもそも、Qチャンネルの信号はIチャンネルの信号の位相を±90°シフトしてコピーしたものです。したがって、実際に求める必要があるのはI1とI2だけです。
制約
現実の複素ミキサーでは、イメージ信号を完全に除去して高い性能を得るのは簡単なことではありません。その原因となる制約は、無線アーキテクチャの設計において2つの明確な影響を及ぼすと考えることができます。
性能の面で制約があるとしても、複素IFを採用すれば明らかなメリットが得られます。図10に示したような低いIFを使用する例を考えてみましょう。仮に性能上の制約を許容したとすると、イメージが現れます。しかし、このイメージは、単一のミキサーを使用した設計( 図6 )で予想されたイメージよりも大幅に減衰しています。複素ミキサーではこの部分にフィルタが必要になります。しかし、そのフィルタに対する要件はかなり緩やかなので容易かつ低コストで実現できます。
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フィルタの複雑さは、イメージと所望の信号の間の距離に反比例します。ゼロIFの構成を採用した場合、距離はゼロになります。つまり、イメージは所望の信号帯域内に現れます。ゼロIFの理論を現実のアプリケーションに適用するにはかなりの苦労が伴います。帯域内のイメージが許容可能なレベルを超えると性能が低下します(図11)。
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複素トランスミッタ/レシーバの原理は、I /Qのデータ・パスにおける位相と振幅の要件が満たされている時だけ成り立ちます。信号パスの不整合は、LOの両側においてイメージを低い精度でしか除去できないという結果につながります。このような問題については図10と図11によって確認することができます。ゼロIFを採用していない場合、イメージを除去するために恐らくフィルタを使用することになるでしょう。一方、ゼロIFを採用している場合には、不要なイメージが所望の信号帯域内に現れます。そのパワーが大きすぎると、何らかの不具合が生じることになります。ゼロIFと複素ミキサーを組み合わせることで、システム設計に対して大きなメリットを提供するソリューションを実現することができます。ただし、それは設計によって信号パスの位相と振幅の不整合を除去できる場合に限られるということです。
先進的なアルゴリズムの実現
複素ミキサーを使用するアーキテクチャのコンセプトは何年も前から存在していました。ただ、ダイナミックな無線環境において位相と振幅の要件を満たさなければならないという課題が、ゼロIFモードの普及を妨げる要因となっていました。アナログ・デバイセズは、高度なIC設計と先進的なアルゴリズムを組み合わせることにより、この課題を克服しました。信号パスに存在する問題は、高度なIC設計により最小化されるため、ある程度の障害を許容できます。また、その他の不完全な部分については、QEC(Quadrature Error Correction)のアルゴリズムを自己最適化することによって校正することができます(図12)。
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「AD9371」に代表されるアナログ・デバイセズのトランシーバICでは、内蔵するARMプロセッサによってQECのアルゴリズムが実行されます。このアルゴリズムには、ICの信号パス、変調されたRF出力、入力信号に関する情報(Knowledge)が盛り込まれます。それにより、型どおりの処理を行うのではなく、予測制御的な方法によって信号パスのプロファイルを知的(Intelligent)に適応させます。このアルゴリズムは、アナログ信号パスの性能をデジタル的なアシストによって向上させるものだと言うことができます。
QECのアルゴリズムを使用したダイナミックなキャリブレーションは、優れた機能です。しかし、これはアナログ・デバイセズのトランシーバICが備える先進的なアルゴリズムの一例にすぎません。例えば、LOリークを除去する機能なども、ゼロIFアーキテクチャを最適なレベルの性能に引き上げることに貢献します。こうした第1世代のアルゴリズムは、主にトランシーバ技術の実現のために必要になったものです。一方、デジタル・プリディストーション(DPD)をはじめとする第2世代のアルゴリズムは、トランシーバだけでなくシステム全体の性能を向上する役割を果たします。
あらゆるシステムは完全なものではありません。そのため、性能は制限されます。第1世代のアルゴリズムは、主にトランシーバ内部の制約を校正することに重点を置いたものでした。それに対し、第2世代のアルゴリズムは、より知的な処理を行うことで、システムの性能と効率に影響を及ぼすトランシーバ外部の制約を補償します。例えば、PAの歪み/効率(DPD/CFR)、デュプレクサの性能(TxNc)、相互変調歪み(PIM)の問題などの解消に役立ちます。
まとめ
複素ミキサーはかなり以前から存在する技術です。しかし、そのイメージ除去性能は、ゼロIFの構成で使用できるほどのレベルには達していませんでした。しかし、高性能のシステムにおいてゼロIFアーキテクチャの採用を妨げていた性能面の障壁は、高度なIC設計と先進的なアルゴリズムを組み合わせることによって取り払われました。性能面の制約が排除されたことから、ゼロIFアーキテクチャを実用的に使用することが可能になりました。その結果、フィルタ処理、パワー、システムの複雑さ、サイズ、熱、重量に関する問題が軽減されました(これについては、Brad Brannonが執筆した記事をご覧ください1)。
複素ミキサーとゼロIFを使用する場合、QECのアルゴリズムとLOリークの影響を削減するためのアルゴリズムが現実的な機能になります。しかし、アルゴリズム開発の範囲は拡大しており、システム設計者に提供される性能は、無線設計をさらに柔軟に行えるレベルまで向上しています。設計者は、無線設計においてより高い性能が得られるように、さまざまな選択を行うはずです。また、それだけでなく、低コストで小型のコンポーネントを使えるようにするために、アルゴリズムによって得られるメリットを活用するケースもあるかもしれません。