電気化学インピーダンス分光法により、 燃料電池の故障を検出する
はじめに
水素に関連する市場は、2050年までに10兆米ドル(約1340兆円)の規模に達すると予想されています1。その金額は、世界のGDP(国内総生産)の13%に相当することになる見込みです。一方、世界では、輸送の分野でゼロ・カーボンを実現するためのソリューションについて真剣に検討を始めた国/地域が増えています。そのソリューションとして有力なのが、水素を利用する燃料電池だということです。実際、ここ数年の間に燃料電池は急速に普及しつつあります。例えば、燃料電池車(水素自動車)は、水素の発生装置や電気分解用の装置を中心とした新たな市場を切り拓く存在となっています。そうした装置を活用すれば、水素をガソリンのようにトラックで長距離輸送するのではなく、燃料ステーションで製造できるようになります。多くの場合、水素を発生する電気分解装置や、水素を利用して電気を生成する燃料電池の中心にあるのは、プロトン交換膜(PEM:Proton-exchange Membrane)です(図1)。PEMを使用する燃料電池は、他のモデルと比べて比較的低い温度で機能します。加えて、サイズと重量も抑えられます。その種の燃料電池は、水素と酸素が適切な量と条件で供給される限り、電気を生成することができます。一方、電気分解装置も同じようなコンポーネントで構成されます。但し、燃料電池とは逆の振る舞いを示します。つまり、電気を供給することにより、水から酸素と水素が生成されるということです。
図1. PEMをベースとする燃料電池2
現在では、バス、自動車、軽量軌道交通など、より多くの輸送機器にPEMをベースとする燃料電池が使われるようになってきています。それに伴い、燃料電池の故障を事前に予測するということがより重要になっています。稿末に示した参考資料3、同4を見ると、PEM内にピンホールが形成されるといった故障モードを検出するためには、電気化学インピーダンス分光法(EIS:Electrochemical-impedance Spectroscopy)を利用できると説明されています。一般に、EISは、数十Aから数百Aの電流を出力するベンチトップ型の装置を使用して実施されます。しかし、そうした装置はサイズが大きく、自動車などに適用された燃料電池の診断を現場で行うという用途には明らかに適していません。そこで、本稿では、1A~100Aの励起電流によって動作するポータブルなEISシステムを構築する方法について検討します。特に、その種のシステムを構築する際の課題と、EIS用のフロント・エンドIC「AD5941W」5がもたらすメリットを活かす方法について詳しく解説します。AD5941Wは、燃料電池、電気分解装置、バッテリをはじめとする低インピーダンスのシステムに適用できます。
実験による検討
本稿では、AD5941WをEIS用の基本的なエンジンとして使用するシステムを考えます。同製品は、EISによるインピーダンス測定向けのフロント・エンドICです(図2)。これを使用すれば、定電位測定と定電流測定の両方を高い精度で実施できます。燃料電池のテスト(他の種類のバッテリのテストと似ています)を行う際には、電流を生成して電圧を測定する定電流測定が必要になります。
図2. AD5941Wのブロック図。励起を行うために使用する広帯域幅のアナログ・フロント・エンドのパスと、キャリブレーションやDFT/EISによる分析を行うための高精度のA/Dコンバータのパスを備えています。
本稿の執筆にあたり、まずは「CN0510」のテストを実施することにしました(図3)。CN0510は、バッテリのインピーダンスのテストを行うお客様を支援するためにアナログ・デバイセズが開発したリファレンス設計です。バッテリのインピーダンスを測定することに特化した高精度のボードであり、高性能のEISエンジンとしてAD5941Wを使用しています。テストに着手したところ、すぐにこの方法には制約があることが明らかになりました。具体的には、バッテリのAC励起に使われる電流量が少ないこと、ボード上の外付けアンプによって生じる1/fノイズのコーナー周波数が問題になること、受信側のシグナル・チェーンに施しているデカップリングによって励起と受信に関わるコーナー周波数が低くなりすぎることです。筆者らは、約100Hz以下の周波数領域と最高で数十kHzの周波数における燃料電池の振る舞いを把握したいと考えていました。また、(燃料電池のプロセスで生じるノイズを上回るように)最大10Aの励起電流も必要としていました。そのため、このボードの改変が必要であることは明らかでした。
図3. CN0510の回路図。バッテリを対象として、EISによる測定方法を提供するシステムです。
この回路において励起電流の範囲を拡大する方法の1つは、遠隔制御が可能な電子負荷に励起信号(図3のCE0)を送信することです。ここでは電子負荷として菊水電子工業の「PLZ303W6」を使用することにしました。図4は、その方法を詳しく説明したものです。
図4. CN0510のボードとPLZ303Wの電気的な接続
数十Aの電流を扱う場合には、配線の寄生インダクタンスを考慮し、必要に応じてツイスト・ケーブルを使用するといった方法を採用しなければなりません。それにより、電圧ノイズを拾わないようにすることが重要です。図4のような改変を施したシステムを使用すれば、高い精度でインピーダンスを測定することができます。具体的には、10mΩのDUT(被測定デバイス)を使用した場合に、標準偏差を約1µΩ~2µΩに抑えることが可能です(図5)。
図5. PLZ303Wを使用して10mΩのDUTを測定した結果
また、このようなデータを一連の周波数範囲にわたって取得することで、装置による励起に対する応答やロールオフの特性などを確認しました。図6に示したエラー・バーからわかるように、励起信号の周波数が低くなると、受信側ではシグナル・チェーンのACカップリングが原因となって再現性が低下します。
図6. 測定結果の周波数依存性。PLZ303Wを使用し、10mΩのDUTの測定を行った結果です。
先述したように、PLZ303Wのような装置は自動車が搭載する燃料電池などを対象とした測定には適していません。PLZ303Wの場合、重量が約10kgにも達し、可搬性に欠けるからです。しかし、上記の結果から、この測定手法が有効であることはわかります。つまり、装置の小型化を目指すことには大きな意味があると言えます。そこで、小型化を実現するために標準的なオペアンプ製品である「AD8618」を使用して、電圧制御電流源(VCCS:Voltage-controlled Current Source)を構成することにしました。図7に示したのがその回路図です。同オペアンプを選択したのは、適切なゲイン帯域幅とまずまずの精度を併せ持つからです。
図7. 新たに開発したディスクリート構成のVCCS回路
図7のような回路(以下、アクティブ電流シンク回路)を構成するに至った詳しい経緯は割愛しますが、次のようなことに注意する必要があります。まず、長い配線はすべてツイスト配線で実現しなければなりません。また、寄生インダクタンスを制御するために局所的にデカップリングを適用する必要があります。図7の回路において、コンデンサC2はノイズを低減する役割を果たします。ただ、約1kHz以上の周波数領域においてロールオフを引き起こす要因にもなります。
図8. 新たな電流励起段を適用した回路
図8に、図7の回路を適用して改変した測定回路を示しました。また、励起信号の周波数と、励起ノードにおけるDC/AC信号の振幅を直接制御し、キャリブレーション用の抵抗を調整するためのスクリプトを作成しました。そのスクリプトはPythonで記述しています。図9に、励起信号と受信信号の波形の例を示しました。
図9. 励起信号と受信信号の波形。アクティブ電流シンク回路を使用して1Hzと10Hzの信号を取得しました。Ch 1はAD5941WのCE0の出力、Ch 2は励起電流、Ch 3はSNS_Pの入力信号、Ch 4はオペアンプへの減衰信号です。
図10に示したのは、アクティブ電流シンク回路を使用した場合の測定結果です。また、表1には、受信側のシグナル・チェーンに値の異なるデカップリング用のコンデンサを適用した場合の結果を示しました。各コンデンサを使用した場合に、インピーダンスの測定結果における誤差(標準偏差)がどのようになるのかまとめてあります。
図10. 100mΩのDUT(10個)から得た実数インピーダンスのデータ。低い周波数で大きな誤差が生じていることがわかります。
実数部の標準偏差 | 虚数部の標準偏差 | ||
2.2µF | 10.17873 | 7.712895 | mΩ |
22µF | 8.63443 | 6.755872 | mΩ |
100µF | 3.75349 | 7.49259 | mΩ |
受信側のシグナル・チェーンで使用しているデカップリング用のコンデンサが、インピーダンスの測定値(中央値)とその再現性に影響を及ぼすことは明らかです。また、コンデンサの値を大きくすれば、誤差の標準偏差は改善されます。ここで例にとっているボードの場合、物理的に配置可能なサイズを考慮すると、最大値は100µFとなります。
DUTのインピーダンスを10mΩに下げても、低い周波数における誤差は、図11に示すように図10の場合と似たような形状になりました。
図11. 10mΩのDUT(10個)から得た実数インピーダンスのデータ
続いて、DUTのインピーダンスを更に1mΩまで下げた場合、どれくらいの測定誤差が生じるのかを評価しました。その結果を図12に示します。
図12. 1mΩのDUT(10個)から得た実数インピーダンスのデータ
EISによる燃料電池の測定
ここまで、インピーダンスの値が既知の抵抗を対象として、本稿で紹介している回路の基本的な機能を実証してきました。続いては、この手法を実際の燃料電池に適用します。具体的には、図7に示した回路を使用し、燃料電池のインピーダンスの測定を行います。ここでは、燃料電池として「Flex-Stak」7を例にとり、ナイキスト・プロットを取得することで評価を行います。ナイキスト・プロットは、周波数を変化させながら実数/虚数インピーダンスを測定した結果を視覚化する手段となります。最初に行ったテストの結果を図13に示しました。
図13. EISを使用して取得したFlex-Stakのナイキスト・プロット
この燃料電池のインピーダンスはわずか数百mΩです。AD5941Wとアクティブ電流シンク回路を組み合わせることにより、1Hz~5kHzの範囲でそのインピーダンスの値を把握することができました。図13のナイキスト・プロットは、この燃料電池について想定される概算値を表しています。DC励起は燃料電池の定格性能よりも大きく、この実験はある程度、燃料不足の影響を受けた可能性があります。EISによる測定を行うために印加したAC摂動もかなり大きく、測定用のDC励起に対応する線形応答の範囲を超えていました。このテストからは、AD5941Wを使用したEIS回路の機能以外に関する洞察を得ることはできません。この燃料電池の応答について洞察を得るには、より適切なテストを行う必要があります。とはいえ、この回路を正しく適用すれば、水素のクロスオーバーや酸素の濃度に加えて、その他の潜在的な故障モードも検出できる可能性があることがわかります。
小さな燃料電池を対象としたテストに続き、Ballard Power Systems製の燃料電池を対象としてテストを行うことにしました。その製品は、66個のセルから成る空冷式の燃料電池スタックです。これを対象とし、本稿で紹介している回路によるテストを実施することで、現場での診断に対応できるか否かを評価しました。そのような診断が可能であれば、燃料電池を扱うオペレータは、そのスタック全体について、また稼働時の電気化学的な振る舞いについてより深く理解することができます。現在、オペレータが診断の材料として利用できるものは、燃料電池のスタックが生成する電力だけです。本稿で紹介している新たな分析手法を導入できれば、整備工場に車を持って行って診断を行った際、エラー・コードが表示されるのと似たような形で結果が得られるようになる可能性があります。
筆者らは、図7に似た回路を使用し、インピーダンスの測定のために印加する電流摂動を、燃料電池スタックのDC動作点の小さな範囲(約5%)をターゲットとして生成するということも行いました。これは非常に重要なことです8。なぜなら、それにより、電気化学システムが線形動作する範囲で測定を行い、システム全体を対象としてインピーダンスのデータを外挿できるようになるからです。
図14は、菊水電子工業のEISシステムであるPLZ303WとAD5941Wをベースとするシステムを使用したテストの結果を比較したものです。
図14. Ballard製の燃料電池スタックのテスト結果。AD5941Wをベースとするシステム(図中のADI)とPLZ303Wをベースとするシステム(図中の菊水)による結果を比較しています。
図14に、DC動作電流が10A~60Aの場合のナイキスト・プロットを示しました。EISによる測定範囲は、1Hz(半円の右側)から5kHz(半円の左側)です。AD5941Wによる結果は実線、PLZ303Wによる結果は点線で表しています。それらの結果を見ると、ディスクリート構成のVCCSを使用した場合、設計限界(安定性と高周波性能の間のトレードオフ)が現れ始める高い周波数において、かなり一致しています。EISによるスキャン式の測定では、低い周波数と高い周波数の両方に電気化学の効果が現れます。そのため、どのような装置/機器を使用するのが最適であるかは、ユースケースに依存する可能性があります。いずれにせよ、このスキャン式による測定結果は、重量とサイズがベンチトップ型装置の1/100という非常に小さな携帯型装置を使うことでも、燃料電池スタックのEIS測定を適切に実施できるということを示しています。
本稿の冒頭で述べたように、水素に関連する市場は数兆米ドルの規模にまで拡大すると予想されています。本稿で示したイノベーションは、オンボードの燃料電池の診断を可能にすることで、そうした市場の拡大を支える役割を果たすはずです。重要なのは、電子機器と電気化学に関する適切な知識をシステムの設計に協調的に組み合わせることです。そのことが、水素燃料に基づく完全にグリーンな電力源への移行を促す1つの要因になるはずです。
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